名前 | 長坂 康正(ながさか やすまさ) |
---|---|
生年月 | 昭和32年4月 |
好きな言葉 | 理想は高く、姿勢は低く、いつも心に太陽を。 |
選挙区 | 愛知県第九選挙区 |
当選回数 | 衆議院議員 4回 |
昭和51年 | 東海学園東海高等学校卒業 |
---|---|
昭和55年 | 青山学院大学経済学部卒業 衆議院議員海部俊樹秘書 |
平成元年 | 内閣総理大臣秘書(内閣官房調査員) |
平成6年 | 愛知県議会議員に初当選(以後連続6回当選) 県監査委員、議会運営委員長、総務県民委員長 治安委員長、自民党県連青年局長などを歴任 |
平成19年 | 自民党愛知県議団 団長 |
平成21年 | 自民党愛知県連 幹事長 |
平成22年 | 自民党愛知県連 幹事長 |
平成24年~ | 12月衆議院議員小選挙区で初当選 所属委員会:国土交通委員会、総務委員会 公選法改正特別委員会 (党役職)広報本部新聞局次長、国土交通部会副部会長 |
平成26年 | 12月衆議院議員小選挙区で2期目の当選 所属委員会:予算委員会、総務委員会 公選法改正特別委員会 (党役職)広報本部新聞局次長、国土交通部会副部会長 |
平成28年 | 所属委員会:予算委員会、総務委員会 公選法改正特別委員会 (党役職)国土交通部会副部会長 総務部会副部会長、国際局次長 |
平成29年 | 3月 内閣府大臣政務官兼復興大臣政務官に就任 8月 第3次安倍第3次改造内閣で 内閣府大臣政務官兼復興大臣政務官に留任 10月 衆議院議員小選挙区で3期目の当選 11月 第4次安倍内閣で 内閣府大臣政務官>兼復興大臣政務官に再任 |
令和元年 | (党役職)農林部会長代理 (所属委員会)内閣委員会理事、国土交通委員会、地方創生特別委員会、東日本大震災復興特別委員会 |
令和二年 | 9月18日、菅新内閣で経済産業副大臣に就任 |
令和三年 | 10月31日 衆議院議員小選挙区で4期目の当選
11月 衆議院経済産業委員会理事、 12月 党組織運動本部団体総局厚生関係団体委員長、 |
令和四年 |
9月 衆議院 国土交通委員会理事、衆議院経済産業委員会委員、衆議院原子力特別委員会委員に就任。 |
令和五年 |
10月 衆議院 国土交通委員長に就任。 |
ブッシュ(父)大統領と
秘書時代のエピソード
東海中学、高校の先輩であり、同校弁論部の先輩でもある海部俊樹衆議院議員の秘書となる。
国会事務所で働いて1年が経ち、海部代議士から政治の勉強をするなら僕の随行秘書になれ、休みも無く国会も地元も行動をともにする。
朝から晩まで大変だけど一緒に行動すれば色んな人の既知も得られるし一番身になるぞ。と言われて尊敬する先生と常に一緒にいられると喜び勇み2〜3年のつもりで朝は8時の朝食会の迎えから夜は赤坂の料亭の会合が終わり宿舎へ送るまで。まさに月月火水木金金で海部代議士の秘書の中で誰よりも休みも無く良く働くことになる。
以来12年間、私設秘書から公設秘書となり総理大臣秘書として海部俊樹と行動を共にする側近秘書、秘蔵っ子として政治の道の薫陶を受ける。
当時は総理は1年か1年足らずで交代していた時代、前任の宇野宗介は3か月の短命内閣の退陣を受けての就任であり、全身緊張感で海部総理と共に官邸入りをした。毎日薄氷を履む思いであったと本人も語っている。
2年3か月、途中3ヶ月間は自身の県議挑戦のため総理秘書から離れるも県議選に惜敗し捲土重来を図っている時に、忙しいから東京へ戻れと連絡が入り再び海部総理の元で秘書として総理を支え海部総理が政治改革の道半ばで退陣するまで総理官邸で勤める。
海部総理初外遊のワシントン訪問から公式随員として海外に同行した国は30ヵ国を超え、平成の即位礼を始め数々の公務の黒子役として活動した。